やめかんブログ

「いただきます」と言えるのは、実はけっこう幸せなこと。

どうも、Dスケです。

 

先日も記事にした狩猟家・幡野広志さんの写真展や、近年の田舎へのUターン・Iターン動向、実家である宮崎で父の趣味の庭いじりや釣りの釣果を目の当たりにするなど、個人的に「食べるということ」を考える機会が多いなと感じる今日この頃です。

 

山奥や田舎では、本当に「命をいただく」ということをイヤでも意識する。

先週は宮崎に1週間もどって、ほとんどの時間を両親と過ごしたんですが、久しぶりに雑草の草刈りや、なりすぎて取り切れない梅の収穫などをしました。

1日中、自然と触れ合って、草木や花を愛でて、太陽の光をいっぱいに浴びて、疲労感たっぷりで帰る(「心地よい疲労感」と言いたいところですが、がっつり疲れますw)。

そうして家に帰ると、普段はあまり食べないような、野菜をふんだんに使った料理が出てくるんですが、さっきまで自然に触れあっていたせいか、本当に「いただいている」感覚になるんです。

別にうちは農家でも何でもなく、丹精込めた農作物を作っているわけでもないですが、それでも自力で育ってくれる強さを目の当たりにすると、本当に頑張って芽を出し、花を咲かせ、実ってくれたんだなぁとしみじみします。歳でしょうかw

きっと牛とか豚に触れあったりすると、より感じるだろうなと思う。実際、お肉が食べれなくなる人もいるようですし。

 

都会にいると、そんなことは一切ありません。

普段はPCに向かった仕事しかしていないのもあるでしょうが、この野菜はどのように育ったのか、このお肉はどのように加工されたのか、この魚はどんな人が獲ったものなのか、想像力が働かないんです。

「生産者の顔」がみえない、とも言えますし、もっと言えば「作物の顔」もみえない。

もちろんお店のお品書きなどで、生産地が書かれていたり、生産者の顔も載っていたりするんですが、「宮崎の鈴木さんが作ったキュウリです」にはさすがに感情移入できない。あーそう、そうなのね、で誰?みたいなw

まぁ安心できる一つの要素にはなりますけどね。

 

そう考えると、作られる工程を見たり教えてもらったりする、いわゆる「体験型」のイベントというのは盛り上がるのも分かるし、それを越えて大事だなぁと感じます。

農業体験や畜産・漁業の体験、パンやお酒の工場見学など、普段から口にしているものがどのような流れで、手間で、時間で、完成に至るのか、目にすること、体感することは、出すお金以上に自分に残る価値になる気がします。

これまではあまりそういう体験の場に行く機会もきっかけもなかったんですが、時間のある今だからこそ、行っておきたいと思ったりします。

 

今回もとりとめのない日記のようなブログですいませんw

 

 

余談なんですが、『約束のネバーランド』というマンガがありまして。

 

人間を食べる鬼と、それから逃げる子供たちの物語なんですが。

時代としては2045年の話ということで未来感もあり、普通に考えるとトンデモ設定とも言えますが、個人的には有り得ない話でもないのかなと思ったりしてるんです。

 

誰が「人間は、何者からも食べられない生き物」と決めたんだろうか?

人間よりも知能も体力も組織も上位の生物が生まれれば、人間は牛や豚のように「食べられるもの」として管理されることも、なくはないのでは。

今でさえ、熊やワニに襲われて亡くなる人もいるくらいですから、あるといえばある。

文字通り、「いただかれる」わけですね。

 

もし、そうなってしまった時に、「いただかれる」側になってしまった時に、人間は素直に受け入れられるのだろうか。

むしろ、僕らがすでに「いただいている」肉や魚は、すんなりとその状況を受け入れて「いただかれる」側になっているんだろうか。

 

おそらく、そんなことはないわけで、だからこそ日々、感謝して「いただきます」と言うべきなんだろうなと思ったりします。

※無宗教ですw

 

「いただく」側の意識が強くなると、自然と「いただかれる」側の気持ちにも思いを馳せるのかなーと、それはもう中二っぽいことを考えたりする最近です。

ではでは。

 

 

 

Dスケ