やめかんブログ

僕は「優しい文章」が書きたいんだと気付きました。

どうも、Dスケです。

 

やめかんブログでは、会社を辞めた僕Dスケの、辞めてから考えている色々なこと、自分で発信をする際に考えている色々なこと、今後やっていきたい色々なことについて、つらつらと書かせていただいてます。

 

このブログを書かせていただくようになって、そして途中から「やめかんブログ」として書かせていただくようになってから、より他の方の文章、特にネット上でのブログや連載など、「個人で発信する文体」に注目するようになりました。

インターネットが発達して20年ほどになるのかな。当初からネットでの発信を続けてきた人を考えると、運営半年ちょっとの自分なんてまだまだペーペーのペーペーです。産毛になる前のタンパク質くらい、型が定まっていない。なんやそれ。ちなみに、産毛になる前のタンパク質はケラチンと言うそうです。

まぁ実はミュージシャン活動をやってた時期もあるので、ブログ自体は数年やったこともあったのですが、遠い昔の話です。それはさておき。

 

個人の発信をされている方の文体は、本当に人間が出るなぁとしみじみ感じます。

非常に合理的に論理展開をされる方、大衆を煽って煽って火を付ける方、可愛げがあって親しみの沸く方、長文でもなんか読み易い方、ユーモアセンスに溢れた方、などなど。

自身をブランディングしてわざとやってる場合もあるでしょうが、個人的には自分を偽ることは長続きしないと思っているので、半分以上は素の自分で運営されていることがほとんどでしょう。

「人」が出ている文章は、ジャンル関係なく本当に面白い。

 

自分に置き換えてみると、論理的な文章も好きだし、煽られてる時の痛快さも好きだし、文章に人間味があると親近感を覚えるし、長くてもウィットに富んだ記事を読みたいし、「読み手」としてさまざまな感性がある中で、「書き手」の自分をひとつ決めるのは難しいと感じます。

それこそがブランディングかぁと当たり前のことを考えたりします。

 

そんな僕が最近出会ってきた文章の中で、他とは違う感覚で読後感をむかえるものがあります。

それは、「優しい文章」。

「優しい」と言っても、内容が優しいわけではなく、文体が優しいもの。言ってることが辛辣であっても、諭すように、ささやくように、スッと心の中に入って、最後にほんのりと温かくなる、そんな文章。

例えば、最近何度も触れさせていただいている古賀史健さんや、けんすうさん、糸井重里さん、若い人でいうと鳥井弘文さんであったりは、他の方の文章を読んだ後とはほのかに違う「微熱」が残ります。

それは本当に本当に小さな熱で、1つや2つの文章を読んだだけでは気付きにくいくらい小さいんだけど、その代わりに心にずっと残り続けて、積み重なって、ある時、自分の中のくぼみに「ストン」と落ちる感覚があるんです。

そして少しの間、動けなくなる。そんな温かさ。

 

なんか、彼らが想定している読者って、今インターネットで触れている「現在の僕ら」はもちろんのこと、今後数年先、数十年先の僕らであったり、それよりもっと先の子や孫の世代であったり、そういう「未来」に向けた言葉がけのように感じます。

父のようであり、母のようであり、祖父母のようであり、近所の気さくなおっちゃんであり、そんな厳しくもあり、大きな優しさで包んでくれる。

 

僕はこういう「優しい文章」が書きたいなぁ。

文体だけでなく、それを越えて姿勢や生き方そのものが優しさで溢れる文章。

もちろん、日々社会に不満を感じたり、些細なことでイライラしたり、俯瞰して何偉そうなこと言ってんだと嫌気がさしたり、ひとつだけじゃない自分が感じることも沢山あるけれど。

願わくば自分の文章を読んだ人が、ふっと息を吐きたくなるような、ほんのりとした熱を残せる文章を。

 

話題性とか、炎上を狙うのであれば、センセーショナルな内容や言葉選びの方がいいなというのは感じてるんですけどね。

最近の投稿も、少しそういうのを書いたりして、特に炎上も批判もされずここまで来てますがw

でも、そういう文章って、どうしても読み始めるときに身構えてしまう。

「ああ、きっと自分のこと言われてるんだろうなぁ」とか戒めながら、どこかで読み漏らさないように感度を強めながら読んで、気付いたら少し体力を消耗してる。

そこまで燃やせる自信も別にないのですが、どうせ書くなら心穏やかに読める場で、ここは在りたいなぁと思った次第です。

 

もちろん、「どう語るか」より、「何を語るか」や「誰が語るか」ってところが重要な気がするので、勉強しながら自分の考えをまとめて発信できるようになれたらとは思いますが。

今回は短いですが、決意表明的なところです。

ではでは。

 

 

 

Dスケ