どうも、Dスケです。
今日はこの自分のつぶやきから話を膨らましてみます。
昨日今日で「ダサい」がキーワードなのか、よく目にする。
ダサいにも両方あって、ダサいからやらないか、ダサいから敢えてやるかの選択。必要以上に綺麗なものはアクがなくなるし、反対に泥臭くてもやり続けて研ぎ澄まされることもある。
要は自分のセンスの感度をどれだけ高められるかなんだろう。
— Dスケ@辞めてから考えるブログ (@Dsuke203) 2018年7月13日
140字だと伝わりづらいかな…というか、言葉をまとめるの下手だな…
と思って、補足の意味も込めて、書いてみようと思った次第ですw
ちなみにこの「ダサい」を目にしたいくつかの記事がこちら。
「私は弱者のカリスマ」アイドルをクビになったレスラー・伊藤麻希の究極ポジティブ論 | 新R25
AIRDOの魅力とは? ダサさを完全に払拭しないことの重要性。 | 隠居系男子
書かれている記事の時期は正直バラバラで少し昔のものもありますが、偶然同じキーワードを立て続けに目にすることがあります。特にTwitter徘徊してるとね。
こういう時って、何かしらの見えない力が意識させるように目に留まるようにしてるのかなと思ったりするわけです。余談ですが。
さて、ダサい・ダサくない論。
最近のワードだと「アゲ・サゲ」とか「エモい・エモくない」にも置き換えられるんでしょうか。
まぁ今回はダサいという言葉メインで、自分なりに考えてみようと思います。
僕も、ダサい・ダサくないについては、比較的敏感でいたいと思う派です。というか誰しもそうでしょうが。
最たる例としては見た目の服装。もう言葉通りのダサい・ダサくないの話ですが、ダサい格好はしたくない。by ウルフルズ
昔でいえばその時々の年代やトレンドに合ったものを着たいと思っていたし、最近は年齢的にも落ち着いたシンプルなものを身に着けて、清潔感を保つことがダサいを避ける方策ですw
同様に、普段の習慣や行動指針においても、とそこまで崇高な意識を持ってるわけではないですが、ダサい身の振りは極力したくないなぁと考えています。
基本的なことですが、他人に優しくする、陰口を言わない、挨拶をする、ズルしない、なるべく笑顔でいる、とか。もう、あえて言葉に書くほどのことでもなく、すでにダサいですがw
ビジネスの面においては、相手の求める以上のことをする、先回りして配慮する、同じ目線で一緒に考える、返信はなるべく早くする、仕事をくれくれ言わない、など。これも…普通です。。。
でもまぁこれらのことを、僕は意識的にやれるようにして、日々ダサくならないようにしていたりします。
反対に、相手にとか、何かに対して、「ダサいなぁ」と思うこともありますね、価値観も違うわけで。
先程の服装や行動にしてもそうですし、自分の知ってる知識の中での言葉や作品ひとつとっても、なんか自分のセンスと合わないな、悪くないけど好きになれないな、は多々あります。
と同時に、前にリンクした隠居系男子の記事のように「ダサいのがいい」というのもあるあるですよね。一周回って良いとか、逆に良いとか言いがちw
こうなってくるともうよくわかりません。なんなんだ、ダサい・ダサくないって。。。
そこで一つ感じたのが、ツイートした「センスの感度を高める」というポイントでした。
例えば、自分の見た目にこだわらない何のポリシーもない人は、誰かのファッションや髪型やメイクについて、ダサいかどうかの判断はできないですよね。
同じ論理で、普段の自分が何を見ているか、読んでいるか、聴いているか、鑑賞しているかを意識していない人は、いざ新しいものや未知のものを目にしても、それがダサいかどうか、逆にダサくないのか、感度が鈍くてわからない。
これって気付いてないと、ある意味不幸だなと思うんです。センスなんて、誰も教えてくれないし、そうして時代遅れになっていく。これは「ダサい」。
だから、意識して自分の関係する領域だけはアンテナをびんびんに張って、センスの感度を高めるって大事だなぁと思った次第です。
最後に、ダサいかどうかって、「粋かどうか」でもあるかなと思ったり。古い人間ですが。
気前のよさというか、啖呵の切り方というか、そういう清々しさや爽快感ってのが、普段の立ち居振る舞いから滲み出ると、ダサいかどうかの次元を一つ越えていける気がします。
もちろんこれも時代性をしっかりと観察して発揮しないとダメですが。気をつけますw
人それぞれに感度の高いポイントは異なるし、無頓着な部分はなかなか気付くことができないですが、なるべく広く深く、自分のセンスの感度を高めていきたいなと思ったのでした。
自分がダサいかどうかなんて、結局は自分で判断するしかないんだからね。
ではでは。
Dスケ