どうも、Dスケです。
今日はブログ休もうかと思ったんですが、ちょっとコメント付きRTでいいねをいただいた下記ツイートについて、けじめとして簡単に。
カッコよすぎる…けど「落合陽一だから」じゃなくて、名もない一人一人がこの姿勢を持つことが大事なんだよな。偏見による排斥に、立ち向かう姿勢。 https://t.co/zaKiJC0Q9U
— Dスケ@辞めてから考えるブログ (@Dsuke203) 2018年7月16日
(落合陽一さん、敬称略で申し訳ありません…)
この話題の元となったのが、はあちゅうさんとしみけんさんの結婚について、批判や中傷めいたコメントがついていること。改めて見てみると胸糞悪くなりました。
ほとんどが匿名・顔出しなしのアイコン。安全な場所から、外野がわいわい言うてるやつ。しょーもな、ってなります。しょーもな!
あえて、100歩譲りましょう。
究極、自分の相手がそういう方だったらどう考えるか、自分の子どもがそういう相手を選んだらどう感じるか、自分の両親がそういう職業の人だったらどう思うのか。
彼ら2人ほど思想も精神も成熟していない僕は、確かに戸惑うと思います。
その気持ちはわかる。人によっては拒絶の反応になることも、理解できなくはない。
100歩あるいて、元の場所に戻ってみましょう。
それ、普段の生活で、そのまま人に言います?
相手が考えて出した結論に対して、ハナから否定するような言葉を。しかも、状況が他に類のないものであればあるほど、その決断は想像を絶する苦しみを経て、ようやく辿り着いたもののはず。
著名な人だから、全く知らない人だからって、普段の日常と同じく、言っていいはずがない。
これ、想像力の欠如だと思うんですよね。SNSを空想の世界か何かと勘違いしている。
先日書いた災害時の「自粛ムード」の話もそうだし、LGBTやmetooにまつわる話もそうだと思うけど、相手がどんな状況や心境にあるか想像できずに、自分の価値観や配慮を押し付けたり好き勝手伝えたりする。
自分がその立場になってみろ!と言いたいところですが、そういう人たちは「絶対そうはならない」とか返してきそうですね。
そういう人は、「友達」をつくるといいと思うんですよね。
僕にはゲイの友人が何人かいますが、知り合う前はやはり少し恐怖感みたいなものがありました。その界隈の社会を知らな過ぎて。
でも知り合った後は彼らに対するそういった偏見のようなものはなくなったし、というか普通に「一人の人間」以上でも以下でもないことに気付きます。
同じように、被災した友人には「千羽鶴あげるよ!」じゃなくて「何がほしい?」って聞くと思うし、特殊な事情の友人にも「それは違うよ」なんて頭ごなしに言うこともなくなる。
と思うんですけどね。
ただ…それ以上に、僕ら自身が「それはダメでしょ」って言わなきゃダメなんですよね。
今回の落合さんが言いたいのはそこ。傍観者でいるなってこと。
ノイジーマイノリティに黙るな.ちゃんと表明することで社会教育に勤めるべき.インターネット時代.
— ドクター落合陽一 (@ochyai) 2018年7月15日
むしろ、「こういう世の中はおかしい」と思っていることを、しっかり声を上げて意思表示すること。
それこそが、より良い社会を作っていく唯一で最大の行動。
僕は正直、落合さんに怒られた気さえしました。
振り返ると、ひろゆきさんも『働き方 完全無双』で、僕らが声を上げることが、ブラック企業の根絶につながることに触れていた。
僕らはあまりにも「社会はどうせこういうものだ」という固定観念にしばられていたのかもしれません。
SNSは、特に言葉を扱うTwitterやブログは、そんな閉塞感を打破するための意思を強く打ち出せるツールです。
ひと言ずつでも、ポジティブで優しい世界になるように、言葉にしていきたい。
【過去記事】僕は「優しい文章」が書きたいんだと気付きました。
正直、このブログではあまり思想の強いことを書く気はないのですが。
以前の記事「匿名を、辞める」でも批判を恐れないと表明したので、あえて書いてみました。
あくまで自分への矜持のための記事です。
ではでは。
Dスケ